12月 2nd
Posted by 生きるとは☆ as
生きるとは
先日、テレビを見ていたら、面白い番組をやっており、生きるとは大変だな、とまたまた
知らされました。
わずらわしい人間関係から逃れるために、終日、自分の部屋にいて、パソコンやゲームを
したり、漫画を読んだりする人を、「ひきこもり」 と言ったりします。
ところが、最近は、「そとこもり」 というのがあるそうなんです。
職場や家庭の人間関係、とくに日本は国土も狭く、本音と建前もあったり、人と違ったこと
をすると目立つ、たたかれる、噂される、など、人づきあいが大変な国と思います。
「そとこもり」 とは、そんな狭苦しい日本を脱出して、「そと」=「海外」 のことで、
「こもる」とは、人付き合いをしないこと。
つまり、日本でのわずらわしい人間関係をバッサリと断ち切って、海外生活を送る、
ということです。 じゃあお金はどうするの? まず、ガマンして日本でこつこつとお金を
貯める。そして、日本よりも、ず~っと物価の安い国へ行く。
なんと、タイだけで、そのような目的で住んでいる日本人が1万人いるそうです!!
海外でも人付き合いしないとならないんでないの?と思いますが、言葉が通じない
ことが幸いして、お互いに深いところまで干渉しあえない?そうです。
気持ちが、少しわかる感じがします。 私もアメリカにいたときは、とても楽な感じがしました。
タイで暮らしている男性は、「一人で、寂しいと感じることも、正直あります」と言ってました。
どこへ行こうと、生きるとは・・・たいへんなことですね。
たいへんな人生、生きていく目的をハッキリ教えられた親鸞聖人の教えを知ってもらい
たいと、思わずにおれませんでした。
11月 13th
私たちは、ただ生きているのではなく、幸せを求めて生きています。
これに異論を唱える人はないでしょう。
勉強するのも、働くのも、趣味や生き甲斐をするのも、果ては自殺する人さえ、
幸せを求めてのことだからです。生きるとは、幸せの探求です。
ところが、幸せになっている人は少なく、苦しみ悩んでいる人ばかりではないでしょうか。
日々、報じられるニュースも、悲しみ、嘆きの声ばかり。
そんなショッキングなニュースでなくても、自分の周りの人、また自分自身は、
どうでしょうか。「幸せだな~」 という人、少ないんじゃないでしょうか。
たまに幸せを感じるのは、欲を満たしたときぐらいで、その幸せは長続き
しません。 結局死ぬまで苦しみ悩み、不安がたえないのが人生ではないでしょうか。
もし苦しむために生まれ、苦しむために生きているのならば、早く死んだほうが
利口、ということになります。
私たちはけっして、苦しむために生まれてきたのではありません、生きているのでも
ありません。幸福を求めて、生きているのです。
絶対に崩れない、変わらない、無碍の一道という幸福のあることを教えておられる
のが親鸞聖人です。 これが人生の目的です。
生きるとは、この本当の幸福に向かうときに真に意味のあるものとなるのです。
そして、絶対の幸福を獲得したときに、人間に生まれてよかった、苦しい人生生きてきて
よかった、という生命の大歓喜がおきるのです。
9月 28th
「生きるとは」について、考察しています。
「生きる」とは、「生きてゆく」ということです。どこかへ向かって、「生きてゆく」。
昨日から今日、今日から明日へ。去年から今年、今年から来年へ。
一箇所にとどまることは、できません。光陰矢のごとしで、どんどん進んでいきます。
一休和尚は、女性の人生を、
「世の中の、娘が嫁と花咲いて、嬶としぼんで、婆と散りゆく」 と歌いました。
娘→嫁→嬶→婆→死(散る) どんな人も、同じコースをたどります。
男性も呼び名が違うだけで、同じです。何億人いても例外なしです。
昨日、NHKスペシャルを見たら、「ONの時代 第2回スーパーヒーロー 終わりなき闘い」
というのをやっていました。王、長嶋、といえば、野球選手として超一流で、成功者の
中の成功者と言えるのではないでしょうか。ところが、番組では、知られざる二人の50年の
苦悩が、生々しく告白されていました。 そして、今なお、老いや病の苦しみと闘い続けて
いる姿が映されており、若かりし頃とのギャップに、人生のなんともいえない寂しさを感じず
にはおれませんでした。
どんな人の人生も、苦しみ、悩み、不安や心配の連続ではないでしょうか。
そして、最後は、必ず死んでいく。
もし、これだけが人生とするなら、「生きる」とは、「苦しみ」であり、死へ向かっての行進に
ほかなりません。 さっさと自殺する人のほうが賢いことになってしまいます。生きれば生きる
ほど、苦しまねばなりません。
私たちは、苦しむために生まれてきたのか、生きているのか。
そんなバカなことはありません。
幸福になるために生きています。
「人間に生まれてきてよかった!」
「この幸せになるための人生だったのか!」
という生命の歓喜をうることこそが、生きる目的なのだよ、と、
親鸞聖人は90年の生涯、教え続けられたのです。
9月 2nd
Posted by 生きるとは☆ as
生きるとは
自民党、公明党の壊滅的な惨敗と、民主党の大勝利に終わった今回の選挙。
台風も日本に近づいていたのに、新型インフルエンザも大流行し始めているのに、
それらがまったく問題にされないほどの、大地震でした。
「サルは木から落ちてもサルだが、議員は選挙に落ちれば、タダのひと」と、昔の
政治家は言いましたが、落選議員を見ていると、かわいそうなくらいに思えてきます。
自民党は300議席から100議席となり、落選議員は早々に荷物をまとめて議員
会館から立ち退かねばならないとのこと。今までは、「先生、先生」と、地元住民や
官僚から言われていたのに、落選するや、手のひらをかえしたようになったそうです。
「国会議員」という地位、名誉を失っても、これほどの苦痛が襲ってきます。
金も財産も、地位も、名誉も、家族や健康も、やがては私を裏切るときが来るのでは
ないでしょうか。 とすれば、生きるとはけっきょく、苦しむこと、ではないでしょうか。
大勝利をおさめた民主党議員にも、これからさまざまな苦難がやってくるのだから。
じゃあ、さっさと自殺するのが賢いのか? そんなハズはありません。
苦しい人生、なんのために生きるのか、人生の目的を知り、それを達成することが
大事ではないでしょうか。
人生の目的を知り、それを達成したときに、「生きるとはなんとすばらしいことなのか!」
と、生命の歓喜が沸き起こるに違いありません。
7月 6th
人生80年と言われます。
日本の平均寿命は大きく80歳を超え、定年退職して老後と言われる年代になっても20年以上生きる世の中になりました。
昔の人に比べて、長く生きるわけですからその分だけ幸せになったのでしょうか。
一日でも長く生きたいと誰もが思っていますが、長く生きられる世の中になってみんな幸せを感じているでしょうか。
現状を振り返ってみると、どうもそうとは言い切れないようです。
若者は将来に対する不安を抱え、大人は子供の未来を憂え、老後を迎えた高齢者は生活苦に悩んでいます。
長く生きたいと願うのに、実際は生きるのが辛いと感じることばかり・・・。
こうした矛盾のウラには、生きる意味について答えを見出せずにいるからではないでしょうか。
幸せについて、生きる意味、人生の目的。
今の世の中は時間に追われて、日々生き延びるのに精一杯と感じている人が多いと聞きます。
「生きる意味なんて考えている時間は無い」と。
本当は逆なのでは無いでしょうか。
生きる意味を知らずに生きているのは意味がない。その先に待っているのは、死だけ。
人は一日生きるたびに死に一日近づいているという事実を見てみぬ振りしているようです。
でも生きるということは、死に近づくということに他なりません。
人生とは死までの道程なのです。
まず生きる意味があって、日々の生活があるということです。生きる意味をないがしろにしたまま生きる先には、死の暗闇が待つばかりです。
親鸞会のホームページには生きる意味のヒントがあります。
生きているという今を輝かしいものに変えるためにも生きる意味について考えてください。
6月 24th
Posted by 生きるとは☆ as
生きる,
目的
自殺サイトというのがあるのをご存知でしょうか。
自殺をしたい人、自殺に興味がある(?)人、漠然とした不安を抱えた人が集まるネットコミュニティです。
最近では、自殺サイトで知り合った人が集団自殺をするなどの社会問題にもなっていて、ニュースや新聞報道などでお聞きになった人も多いと思います。
生きる意味を見出せずに迷える人が集まるコミュニティともいえます。
生きる目的、生きがいを持てないため生きるのに疲れてしまった、生きるのが大変だと感じているのかもしれません。
そもそも自殺がいけないとは思っていないのでしょう。
いや自殺はダメだと思ってはいても、生きるのがそれ以上に難しいと感じているのかも・・・。
浄土真宗親鸞会のホームページでは、生きる意味について考えさせるヒントを提供してくれています。
当然、浄土真宗ですから仏教が根底にありますが、仏教徒ではない人でもすんなりと入れる内容です。
生きる目的、人生の意味について親鸞聖人の教えが紹介されています。
「専修念仏」で知られる親鸞聖人ですが、親鸞聖人の教えには生きる意味のヒント、感謝、喜びのメッセージがたくさんあります。
自殺を選んでしまう人は、生きる意味を見出せずにいるのではないでしょうか。
生きるための苦難が多すぎると。
なぜ苦しんでまで生きなければならないのかと。
「死」は一瞬の苦しみなのでしょうか。
生きる苦しみと死の苦しみとを比べてどちらの苦しみが大きいのでしょうか。
生きる目的を探す道程に答えがあるかもしれません。
6月 2nd
生きる意味を考えるには、死について考える必要があると思います。
「死んだらどうなる?」というのを避けては通れません。
この疑問に答えられる人はそうそういないんじゃないでしょうか。
今生きている人は、ほとんどの人が死んだ経験を持ちませんから、「死」についての未経験者としては一緒です。
けれども、死んだらどうなる、というのを考えたことがある人とそうでない人を分けることは出来そうです。
「生きるとは?」という疑問を持って初めて、死について考え始めるのかも。
逆に「死」について考え始めて、その延長線上に「生きる」意味について考えるのかもしれません。
いずれにせよ、現代社会は生きる意味、死んだらどうなるということに無関心な人が多いように思います。
「そんなの考えたって、分からないから考えても意味無いよ」
「死んだら終わりだから、死について考えてもしょうがない」
こんな風に考えている人が多いのではないでしょうか。
生きる意味を知らずに、死に向かって生きているのに何も感じないのでしょうか。
みんな死ぬ直前になって、生きる意味に気付くのでしょうか。
それとも、死ぬ間際に後悔するのでしょうか・・・。
親鸞会のホームページには「生きる」意味についてのヒントがあると思います。
浄土真宗の開祖と言われる親鸞聖人は「生きる」意味について明確にされています。
弥陀の本願こそ生きる目的なのだと。
納得できるかどうかは分かりません。でもヒントにはあるかもしれません。
5月 10th
いじめ相談に寄せられるいじめの体験は胸をかきむしられるようです。
見ているだけで、聞いているだけでなんともいえないやり切れない気持ちになります。
いじめられている人たちは一様に「理由はなんだったのかわからない」と言っています。
家が貧乏だったから、とか着てる服が人と違ったからとか。
自分で一生懸命理由を探しますが、なぜここまでいじめられなければならないのか理由が分からないと。
いじめる側の言い分はもしかしたらあるのかもしれません。
いじめる側にいなければいじめられてしまうから。
みんながやっているから。
面白いから。
いじめられる側には関係のないことばかりです。
また、いじめられた子供たちは、いじめられていることを両親に知られるのを申し訳ないとまで感じたりするのです。
耐えられないです。
こうしたいじめ問題はいじめる側を罰してもなんの解決にもなりません。
いじめる側は罰されたことに反発を感じて、いじめを繰り返すだけです。
こうした連鎖は「生きる」意味を知らないからではないでしょうか。
「生」に対するリスペクトが無いから、いじめが悪いんだということがわからないからではないでしょうか。
子供に限らず、生きる意味を知らない人が増えています。
かくいう私もその一人かもしれません。生きる意味を知らずに生きているのは、帆の無い船に乗って陸の見えない大海原を漂うかのごとくです。
一生懸命漕いで進んでみても、前に進んでいるのか後退しているのか・・・。
生きる意味、人生の目的、生まれてきた意味を知りたいとは思いませんか。
4月 22nd
現代人の心の病を代表するのが「いじめ問題」です。
いじめは古くて新しい問題ですが、子供たちの学校だけの問題ではなく大人の世界にも「職場のいじめ」が存在します。
文部科学省の定義では「子どもが一定の人間関係のある者から、心理的・物理的攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」としており、「いじめか否かの判断は、いじめられた子どもの立場に立って行う」としています。
このことには深い示唆があります。
「いじめ」は精神的苦痛なのです。殴られたり、モノを取られたり、壊されたりということは実質的な被害ではありますが、それを直したからといって精神的苦痛はなくなりません。
特に「無視される」といったいじめは、深く心を傷つけます。
いじめは生涯にわたる心の傷になり、最悪の場合には自ら命を絶ってしまうという事態さえ招いてしまうものなのです。
こうしたいじめは絶対に許されるものではありません。
いじめられる側にはなんの落ち度もありません。子供は無邪気なだけに、残酷です。
いじめる側には悪意がない場合も多く、軽い気持ちでいじめをしてしまう子供が後をたちません。
いじめられたくないから誰かをいじめる。
こんな理由でいじめが行われたりするのです。
生きるとは?死ぬとは?という疑問を持ったまま死を選んでしまう子供たちを思うと胸が裂かれる思いです。
いじめは現代社会が抱える病魔です。放っておくことは出来ないのではないでしょうか。
4月 1st
現代に生きる私たちは、死ぬことについて深く考えようとしません。
日常生活の中には「死」を連想させるものが極端に少なくなっています。
こんなことを言うと、「私の家には仏壇もあるし、おじいちゃんの遺影もある」とか「毎年お盆にはお墓参りに行ってる」という意見も聞こえてきそうです。
しかし、核家族化が進み仏壇のある家は少なくなっていますし、遺影も同様です。
墓参りも年に一度行けばいいほうで、全く行っていないという人も少なくないはずです。
また戦前までは、家で最期を迎える人も多かったと思いますが、今では病院で亡くなる方がほとんどです。
こう考えていくと、日常生活から「死」を連想させる事象がどんどん少なくなってきているのは異論のないところだと思います。
死を無視、タブー視してしまうことによって「生きる」意味も一緒に考えなくなってしまったのでしょうか。
テレビ、新聞の報道では殺人事件や事故、自殺など「死」が溢れています。それなのに、日常生活では誰も死なないと考えている矛盾。
死ぬことを見つめなおすことで、生きる意味が見えてくるのではないでしょうか。
「生きるとは?」を考えることは「死ぬこととは?」と一対の疑問です。
死を無視しては、生きる意味は見えてきません。簡単に自分の命を絶ってしまう若者の増加は、こうしたことと無関係とは思えません。
生きがいを見出せない、生きる意味を見失ってしまった現代人。
生きるとは、なんぞやということを放置してしまった結果なのかもしれません。