1月12日にハイチでマグニチュード7の大地震があり、すでに5万人の遺体を収容、
死者は20万人になるそうです。ハイチは、ひじょうに貧しい国で、これまでにもいろ
いろな災害があり、国の情勢も不安定です。この地震により、またもや無政府状態
で略奪などが横行しているそうです。
なぜ、苦しくても、生きねばならないのか。この問いは、全人類の問題ではないかと
思います。 幸い、そのような地震に遭わないで平凡な生活を送っている私たちにも、
いつ、どんな天災、人災がおそってくるか知れません。
生きるとは何か、なんて、考えなくたって・・・・という人も、
平凡な生活のまどろみが破られたとき、この問いが突きつけられるのです。
どんな人にも、100%、わかるときが来ます。
みんな死んでいかねばならないからです。
そのときに、この大問題に仰天しても手遅れです。
平生、元気なときに、無常と罪悪をとりつめ、真剣に仏法を聞かせて頂き、この
解決をさせて頂きましょう。
親鸞会の存在目的も、実に、一人一人が親鸞聖人の教えによって、この魂の
大問題を解決する以外にはありません。
親鸞会で仏法を聞かせて頂きましょう。
生きるとは何か、真面目に考えた人は、必ず死を考えるようです。
生と死とは、紙の表と裏のようなもの。切り離せない関係です。
死を無始して、明るい生を築こうとしても、無理な話です。
台所で安心して食事を楽しむには、いつでも安心して使える
トイレがあってこそです。
「死」と聞くと、遠い先のことのように思う人もありますが、
吸った息が吐き出せなければ、吐いた息が吸えなければ死です。
吸う息、吐く息、ふれあっています。
人気ロックバンド・フジファブリックの志村正彦さんが12月
24日、29歳の若さ亡くなりました。
12月10日のブログには、「最近、全然風邪をひきません。
体調もかなり良好。どこも痛くも痒くもない。ここまで健康だ
となんか…年末にこう…風邪が来そうで怖いのです。まあ、
ひいている暇など微塵も無いのですが」
と書かれていたそうです。
「年末に死が来る」と、夢にも思っていなかったと思います。
私も、同じじゃないでしょうか。あと2週間で死ぬ、と思って
いる人がどこにあるでしょう。
みんないつまでも生きている、生きておれる、と思っています。
ある日突然やってくる死。100%やってくる。
人生最大の試練である死の大問題の解決ができてこそ、
本当に明るい楽しい生がひらけるのです。
生きるとは何か。この答えは、死の大問題の解決にあるようです。
「生きるとは」について、考察しています。
「生きる」とは、「生きてゆく」ということです。どこかへ向かって、「生きてゆく」。
昨日から今日、今日から明日へ。去年から今年、今年から来年へ。
一箇所にとどまることは、できません。光陰矢のごとしで、どんどん進んでいきます。
一休和尚は、女性の人生を、
「世の中の、娘が嫁と花咲いて、嬶としぼんで、婆と散りゆく」 と歌いました。
娘→嫁→嬶→婆→死(散る) どんな人も、同じコースをたどります。
男性も呼び名が違うだけで、同じです。何億人いても例外なしです。
昨日、NHKスペシャルを見たら、「ONの時代 第2回スーパーヒーロー 終わりなき闘い」
というのをやっていました。王、長嶋、といえば、野球選手として超一流で、成功者の
中の成功者と言えるのではないでしょうか。ところが、番組では、知られざる二人の50年の
苦悩が、生々しく告白されていました。 そして、今なお、老いや病の苦しみと闘い続けて
いる姿が映されており、若かりし頃とのギャップに、人生のなんともいえない寂しさを感じず
にはおれませんでした。
どんな人の人生も、苦しみ、悩み、不安や心配の連続ではないでしょうか。
そして、最後は、必ず死んでいく。
もし、これだけが人生とするなら、「生きる」とは、「苦しみ」であり、死へ向かっての行進に
ほかなりません。 さっさと自殺する人のほうが賢いことになってしまいます。生きれば生きる
ほど、苦しまねばなりません。
私たちは、苦しむために生まれてきたのか、生きているのか。
そんなバカなことはありません。
幸福になるために生きています。
「人間に生まれてきてよかった!」
「この幸せになるための人生だったのか!」
という生命の歓喜をうることこそが、生きる目的なのだよ、と、
親鸞聖人は90年の生涯、教え続けられたのです。
生きる意味を考えるには、死について考える必要があると思います。
「死んだらどうなる?」というのを避けては通れません。
この疑問に答えられる人はそうそういないんじゃないでしょうか。
今生きている人は、ほとんどの人が死んだ経験を持ちませんから、「死」についての未経験者としては一緒です。
けれども、死んだらどうなる、というのを考えたことがある人とそうでない人を分けることは出来そうです。
「生きるとは?」という疑問を持って初めて、死について考え始めるのかも。
逆に「死」について考え始めて、その延長線上に「生きる」意味について考えるのかもしれません。
いずれにせよ、現代社会は生きる意味、死んだらどうなるということに無関心な人が多いように思います。
「そんなの考えたって、分からないから考えても意味無いよ」
「死んだら終わりだから、死について考えてもしょうがない」
こんな風に考えている人が多いのではないでしょうか。
生きる意味を知らずに、死に向かって生きているのに何も感じないのでしょうか。
みんな死ぬ直前になって、生きる意味に気付くのでしょうか。
それとも、死ぬ間際に後悔するのでしょうか・・・。
親鸞会のホームページには「生きる」意味についてのヒントがあると思います。
浄土真宗の開祖と言われる親鸞聖人は「生きる」意味について明確にされています。
弥陀の本願こそ生きる目的なのだと。
納得できるかどうかは分かりません。でもヒントにはあるかもしれません。
現代に生きる私たちは、死ぬことについて深く考えようとしません。
日常生活の中には「死」を連想させるものが極端に少なくなっています。
こんなことを言うと、「私の家には仏壇もあるし、おじいちゃんの遺影もある」とか「毎年お盆にはお墓参りに行ってる」という意見も聞こえてきそうです。
しかし、核家族化が進み仏壇のある家は少なくなっていますし、遺影も同様です。
墓参りも年に一度行けばいいほうで、全く行っていないという人も少なくないはずです。
また戦前までは、家で最期を迎える人も多かったと思いますが、今では病院で亡くなる方がほとんどです。
こう考えていくと、日常生活から「死」を連想させる事象がどんどん少なくなってきているのは異論のないところだと思います。
死を無視、タブー視してしまうことによって「生きる」意味も一緒に考えなくなってしまったのでしょうか。
テレビ、新聞の報道では殺人事件や事故、自殺など「死」が溢れています。それなのに、日常生活では誰も死なないと考えている矛盾。
死ぬことを見つめなおすことで、生きる意味が見えてくるのではないでしょうか。
「生きるとは?」を考えることは「死ぬこととは?」と一対の疑問です。
死を無視しては、生きる意味は見えてきません。簡単に自分の命を絶ってしまう若者の増加は、こうしたことと無関係とは思えません。
生きがいを見出せない、生きる意味を見失ってしまった現代人。
生きるとは、なんぞやということを放置してしまった結果なのかもしれません。