なぜ人を殺してはいけないのか?
実はこの問いは、ひじょうに奥が深い。
「そんなの、あたりまえじゃん」 という人がほとんどだろう。
そして、こんなことを尋ねる人を、「おかしな人」 と思う。
では、そんな人に、どうして人を殺してはいけないのか、理由を言ってみて、
と、尋ねてみると、次のような答えが返ってくるでしょう。
「刑務所に入れられるから」
「あんたも殺されたくないでしょ?」
「殺された人の家族が悲しむでしょ」
「殺した者の家族も、たいへんじゃないですか」
浅いモノの見方しかできない人は、たいていこういった類の答えだ。
しかし、これでは、答えになっていないのだ。
たとえば、「刑務所に入れられるから」 はどうだろう。
「どうして刑務所に入れられるのか?」
「そういう法律があるから」
「では、誰がそんな法律作ったのか?」
「国民の代表である国会議員が作りました」
「彼らはどうしてそんな法律作ったのか?」
「人命は地球よりも重いからです」
「なぜ人命は地球よりも重いのか?大切なのか?」
「………」
「なぜ人を殺してはいけないのか?」 とは、
「なぜ人命は地球より重いのか?」 という、問いだったのですね。
これには、何千冊の哲学書を読んでも、答えることができないでしょう。
生きるとは、地球より重い、尊い、崇高な人生の目的を果たすため、
絶対の幸福になるため、と、ハッキリ知らされている親鸞学徒だけ
しか、回答できません。
浄土真宗親鸞会で、絶対の幸福とは何か、聞いてみてください。
親鸞会では、親鸞聖人の本当の教えが説かれています。
1月12日にハイチでマグニチュード7の大地震があり、すでに5万人の遺体を収容、
死者は20万人になるそうです。ハイチは、ひじょうに貧しい国で、これまでにもいろ
いろな災害があり、国の情勢も不安定です。この地震により、またもや無政府状態
で略奪などが横行しているそうです。
なぜ、苦しくても、生きねばならないのか。この問いは、全人類の問題ではないかと
思います。 幸い、そのような地震に遭わないで平凡な生活を送っている私たちにも、
いつ、どんな天災、人災がおそってくるか知れません。
生きるとは何か、なんて、考えなくたって・・・・という人も、
平凡な生活のまどろみが破られたとき、この問いが突きつけられるのです。
どんな人にも、100%、わかるときが来ます。
みんな死んでいかねばならないからです。
そのときに、この大問題に仰天しても手遅れです。
平生、元気なときに、無常と罪悪をとりつめ、真剣に仏法を聞かせて頂き、この
解決をさせて頂きましょう。
親鸞会の存在目的も、実に、一人一人が親鸞聖人の教えによって、この魂の
大問題を解決する以外にはありません。
親鸞会で仏法を聞かせて頂きましょう。
生きるとは何か、真面目に考えた人は、必ず死を考えるようです。
生と死とは、紙の表と裏のようなもの。切り離せない関係です。
死を無始して、明るい生を築こうとしても、無理な話です。
台所で安心して食事を楽しむには、いつでも安心して使える
トイレがあってこそです。
「死」と聞くと、遠い先のことのように思う人もありますが、
吸った息が吐き出せなければ、吐いた息が吸えなければ死です。
吸う息、吐く息、ふれあっています。
人気ロックバンド・フジファブリックの志村正彦さんが12月
24日、29歳の若さ亡くなりました。
12月10日のブログには、「最近、全然風邪をひきません。
体調もかなり良好。どこも痛くも痒くもない。ここまで健康だ
となんか…年末にこう…風邪が来そうで怖いのです。まあ、
ひいている暇など微塵も無いのですが」
と書かれていたそうです。
「年末に死が来る」と、夢にも思っていなかったと思います。
私も、同じじゃないでしょうか。あと2週間で死ぬ、と思って
いる人がどこにあるでしょう。
みんないつまでも生きている、生きておれる、と思っています。
ある日突然やってくる死。100%やってくる。
人生最大の試練である死の大問題の解決ができてこそ、
本当に明るい楽しい生がひらけるのです。
生きるとは何か。この答えは、死の大問題の解決にあるようです。
今年1月にアフリカ系アメリカ人として初の大統領となった
バラク・オバマ氏。先日、ノーベル平和賞も手にしています。
ところが、誰の目にもわかるのが、彼の白髪が大統領になっ
てから、急に増えたことでしょう。白髪や脱毛の大きな原因
の一つが、ストレス、と言われています。実はオバマ大統領
だけでなく、歴代大統領の多くが、大統領になってから一気
に老けたそうです。楽は下にあり、とは、昔からよく言われ
ることです。大統領になっても、生きるとは、苦しい、たい
へんなことに違いありません。
「田なければ、また憂いて、田あらんことを欲し、宅なけれ
ば、また憂いて、宅あらんことを欲す。田あれば田を憂え、
宅あれば宅を憂う。牛馬・六畜・奴碑・銭財・衣食・什物、
また共にこれを憂う。有無同じく然り」(大無量寿経)
金、財産、名誉、地位、家族、これらが無ければないことを
苦しみ、有ればあることで苦しむ。
有る者は“金の鎖”、無い者は“鉄の鎖”につながれる。
材質が金でも、鉄でも、苦しんでいることには変わりなく、
これを釈迦は、“有無同然”と説かれています。
生きるとは、どっちにころんでも大変ですが、苦しみの根元
を突きとめ、それを断ち切って絶対の幸福になったとき、
生きるとは、なんと素晴らしいことか! との生命の大歓喜
がおきるのです。これが人生の目的です。
先日、テレビを見ていたら、面白い番組をやっており、生きるとは大変だな、とまたまた
知らされました。
わずらわしい人間関係から逃れるために、終日、自分の部屋にいて、パソコンやゲームを
したり、漫画を読んだりする人を、「ひきこもり」 と言ったりします。
ところが、最近は、「そとこもり」 というのがあるそうなんです。
職場や家庭の人間関係、とくに日本は国土も狭く、本音と建前もあったり、人と違ったこと
をすると目立つ、たたかれる、噂される、など、人づきあいが大変な国と思います。
「そとこもり」 とは、そんな狭苦しい日本を脱出して、「そと」=「海外」 のことで、
「こもる」とは、人付き合いをしないこと。
つまり、日本でのわずらわしい人間関係をバッサリと断ち切って、海外生活を送る、
ということです。 じゃあお金はどうするの? まず、ガマンして日本でこつこつとお金を
貯める。そして、日本よりも、ず~っと物価の安い国へ行く。
なんと、タイだけで、そのような目的で住んでいる日本人が1万人いるそうです!!
海外でも人付き合いしないとならないんでないの?と思いますが、言葉が通じない
ことが幸いして、お互いに深いところまで干渉しあえない?そうです。
気持ちが、少しわかる感じがします。 私もアメリカにいたときは、とても楽な感じがしました。
タイで暮らしている男性は、「一人で、寂しいと感じることも、正直あります」と言ってました。
どこへ行こうと、生きるとは・・・たいへんなことですね。
たいへんな人生、生きていく目的をハッキリ教えられた親鸞聖人の教えを知ってもらい
たいと、思わずにおれませんでした。
「生きるとは」について、考察しています。
「生きる」とは、「生きてゆく」ということです。どこかへ向かって、「生きてゆく」。
昨日から今日、今日から明日へ。去年から今年、今年から来年へ。
一箇所にとどまることは、できません。光陰矢のごとしで、どんどん進んでいきます。
一休和尚は、女性の人生を、
「世の中の、娘が嫁と花咲いて、嬶としぼんで、婆と散りゆく」 と歌いました。
娘→嫁→嬶→婆→死(散る) どんな人も、同じコースをたどります。
男性も呼び名が違うだけで、同じです。何億人いても例外なしです。
昨日、NHKスペシャルを見たら、「ONの時代 第2回スーパーヒーロー 終わりなき闘い」
というのをやっていました。王、長嶋、といえば、野球選手として超一流で、成功者の
中の成功者と言えるのではないでしょうか。ところが、番組では、知られざる二人の50年の
苦悩が、生々しく告白されていました。 そして、今なお、老いや病の苦しみと闘い続けて
いる姿が映されており、若かりし頃とのギャップに、人生のなんともいえない寂しさを感じず
にはおれませんでした。
どんな人の人生も、苦しみ、悩み、不安や心配の連続ではないでしょうか。
そして、最後は、必ず死んでいく。
もし、これだけが人生とするなら、「生きる」とは、「苦しみ」であり、死へ向かっての行進に
ほかなりません。 さっさと自殺する人のほうが賢いことになってしまいます。生きれば生きる
ほど、苦しまねばなりません。
私たちは、苦しむために生まれてきたのか、生きているのか。
そんなバカなことはありません。
幸福になるために生きています。
「人間に生まれてきてよかった!」
「この幸せになるための人生だったのか!」
という生命の歓喜をうることこそが、生きる目的なのだよ、と、
親鸞聖人は90年の生涯、教え続けられたのです。
自民党、公明党の壊滅的な惨敗と、民主党の大勝利に終わった今回の選挙。
台風も日本に近づいていたのに、新型インフルエンザも大流行し始めているのに、
それらがまったく問題にされないほどの、大地震でした。
「サルは木から落ちてもサルだが、議員は選挙に落ちれば、タダのひと」と、昔の
政治家は言いましたが、落選議員を見ていると、かわいそうなくらいに思えてきます。
自民党は300議席から100議席となり、落選議員は早々に荷物をまとめて議員
会館から立ち退かねばならないとのこと。今までは、「先生、先生」と、地元住民や
官僚から言われていたのに、落選するや、手のひらをかえしたようになったそうです。
「国会議員」という地位、名誉を失っても、これほどの苦痛が襲ってきます。
金も財産も、地位も、名誉も、家族や健康も、やがては私を裏切るときが来るのでは
ないでしょうか。 とすれば、生きるとはけっきょく、苦しむこと、ではないでしょうか。
大勝利をおさめた民主党議員にも、これからさまざまな苦難がやってくるのだから。
じゃあ、さっさと自殺するのが賢いのか? そんなハズはありません。
苦しい人生、なんのために生きるのか、人生の目的を知り、それを達成することが
大事ではないでしょうか。
人生の目的を知り、それを達成したときに、「生きるとはなんとすばらしいことなのか!」
と、生命の歓喜が沸き起こるに違いありません。
人生80年と言われます。
日本の平均寿命は大きく80歳を超え、定年退職して老後と言われる年代になっても20年以上生きる世の中になりました。
昔の人に比べて、長く生きるわけですからその分だけ幸せになったのでしょうか。
一日でも長く生きたいと誰もが思っていますが、長く生きられる世の中になってみんな幸せを感じているでしょうか。
現状を振り返ってみると、どうもそうとは言い切れないようです。
若者は将来に対する不安を抱え、大人は子供の未来を憂え、老後を迎えた高齢者は生活苦に悩んでいます。
長く生きたいと願うのに、実際は生きるのが辛いと感じることばかり・・・。
こうした矛盾のウラには、生きる意味について答えを見出せずにいるからではないでしょうか。
幸せについて、生きる意味、人生の目的。
今の世の中は時間に追われて、日々生き延びるのに精一杯と感じている人が多いと聞きます。
「生きる意味なんて考えている時間は無い」と。
本当は逆なのでは無いでしょうか。
生きる意味を知らずに生きているのは意味がない。その先に待っているのは、死だけ。
人は一日生きるたびに死に一日近づいているという事実を見てみぬ振りしているようです。
でも生きるということは、死に近づくということに他なりません。
人生とは死までの道程なのです。
まず生きる意味があって、日々の生活があるということです。生きる意味をないがしろにしたまま生きる先には、死の暗闇が待つばかりです。
親鸞会のホームページには生きる意味のヒントがあります。
生きているという今を輝かしいものに変えるためにも生きる意味について考えてください。
いじめ相談に寄せられるいじめの体験は胸をかきむしられるようです。
見ているだけで、聞いているだけでなんともいえないやり切れない気持ちになります。
いじめられている人たちは一様に「理由はなんだったのかわからない」と言っています。
家が貧乏だったから、とか着てる服が人と違ったからとか。
自分で一生懸命理由を探しますが、なぜここまでいじめられなければならないのか理由が分からないと。
いじめる側の言い分はもしかしたらあるのかもしれません。
いじめる側にいなければいじめられてしまうから。
みんながやっているから。
面白いから。
いじめられる側には関係のないことばかりです。
また、いじめられた子供たちは、いじめられていることを両親に知られるのを申し訳ないとまで感じたりするのです。
耐えられないです。
こうしたいじめ問題はいじめる側を罰してもなんの解決にもなりません。
いじめる側は罰されたことに反発を感じて、いじめを繰り返すだけです。
こうした連鎖は「生きる」意味を知らないからではないでしょうか。
「生」に対するリスペクトが無いから、いじめが悪いんだということがわからないからではないでしょうか。
子供に限らず、生きる意味を知らない人が増えています。
かくいう私もその一人かもしれません。生きる意味を知らずに生きているのは、帆の無い船に乗って陸の見えない大海原を漂うかのごとくです。
一生懸命漕いで進んでみても、前に進んでいるのか後退しているのか・・・。
生きる意味、人生の目的、生まれてきた意味を知りたいとは思いませんか。
世界的映画監督黒澤明監督が1952年に「生きる」という映画を発表しています。
「死」に直面した時、「死にたくない!」と叫び、得体の知れぬ恐怖に震えるのが、ありのままの人間の姿ではなかろうか。そんな人間を赤裸々に描き、「なぜ生きるか」を世に問うた映画です。
黒澤監督自身はこの映画「生きる」について、こう語っています。
「この映画の主人公は死に直面して、はじめて過去の自分の無意味な生き方に気がつく。いや、これまで自分がまるで生きていなかったことに気がつくのである。そして残された僅かな期間を、あわてて立派に生きようとする。僕は、この人間の軽薄から生まれた悲劇をしみじみと描いてみたかったのである」
映画「生きる」は、戦後間もない昭和27年の作品ですが、時代を超えて人々の心を打つものがあると思います。
映画「生きる」の主人公は、末期がんでひょんなことから自分の余命があと半年ということを知ってしまいます。
妻とは死別し、男手一人で育てた息子にも打ち明けられずに孤独に苛まれます。自暴自棄になり、お酒や快楽に溺れるものの満たされず、職場の女性社員に心を寄せてもみますが、受け入れられません。
必死に生きることにもがく主人公は、「人のために役立つ仕事をすれば、生きる喜びが味わえるのでは」 と思い立ち、汚いどぶを埋め立てて、公園を造ろうと動き出しますが・・・。
この後のラストは実際にご覧になってみてください。
生きることの意味について考えさせられるきっかけになると思います。